誰にでもひとつくらいあると思うが、幼少期からずっと通い続けている書店がある。この書店には大変お世話になった。比較的大型の書店なので、家や学校に居場所がないときなどに長時間ぷらぷらしていても目立つことはなく、カフェが併設されてからは茶を飲みながら本を読むというオシャレで文化的な時間を提供してくれた。
通い詰めてもう二十年以上経つが、最近になってはじめて、気になる書店員さんが現れた。 私と父の間で度々話題にのぼって楽しませてくれたその書店員さんの名前は、「老子あるいはソクラテス」。私は「老子」こそその方の形容に相応しいと思ったのだが、父はあの豊かな白髪は古の西洋の賢者を彷彿とさせるので「ソクラテス」のほうが適当ではないかと言い張った。両者譲らず、しかし争うべきほどのことでもないという意見で一致し、間をとって正式名称を「老子あるいはソクラテス」としたのだ。ちなみにふたりとも老子もソクラテスも読んだことはない。私たちはイメージだけで戦っている。
はじめて認識したのは、半年前の秋、新書コーナーで品揃えをしていた老子が常連客に話しかけられて手を止め、にこやかに社交辞令を交わし……次の瞬間、急にスイッチが入ったかのように哲学的問題について延々と討論をしはじめたときだった。その時の老子は、自分が書店員であることを忘れ、ただひたすら自分の見解を語っていた。それがまあ、蘊蓄をふんだんに織り混ぜ、多種多様なたとえを引き合いに出しながら、最終的に本の中身の半分を手放しに賞賛し、残りの半分は疑問の余地が残ると冷静に評論し、それなのに全くえらぶって見えず、むしろ今さっき思い当たった世界の真実を母親に急いで伝えようとする子供みたいな無邪気さすら感じられて、ああ、これが読書家なら一度は憧れるという「書店員」なるものか、と感激した。
以来、書架の間で常連客や同僚を相手に熱弁を振るう老子の姿をみかけると、こっそり近づいて物陰から耳をそばだてて盗み聞きをするというのを何度も繰り返した。危ういどころではない、立派なストーカーだ。老子は日によって小説や実用書、西洋美術から短歌まで幅広く語っていた。底知れぬ叡智と無頓着から来る博愛精神、老子はそれらを常に携えていた。
仕事を辞めて以来、この素晴らしき世界へ自ら積極的に関わることはもうないと思っていたが、ある日、老子にどうしても訊ねたい問いが生まれ、私はついに覚悟を決めることにした。老子を驚かせたりせず、さりげなく自然体でファーストコンタクトをとるべく脳内シミュレーションを重ね、一週間ほど書店に張り込みをした。探していない時は通路でしょっちゅう出会していたにもかかわらず、探してみるとなかかなか会えない。それが世の常である。
今日もいないと諦めて帰ろうとした矢先に、角から端末機器を持ってふらりと歩く老子の姿が目に入った。頭で思い描いていた筋書きなど一瞬で忘れ、老子の本名を大声で叫んで駆け寄った。老子は、奇声をあげて近づく私に慄き、三歩ほど後ずさる。
老子は、これまで生きてきた日数より読んだ本の数の方が多いという。もしこれが老子以外の発言であったなら、なんて壮大な比喩表現を使う人なんだと別なところを尊敬してしまうところだが、老子はそんなつまらぬ誤解を引き起こすような人間ではない。老子がそういうのだからそうなのだ。
老子はある本を手に取って「死ぬほど良かった」と言った。これが妹だったら「おい。軽々しく死ぬとか言うな。本気で死にたい時か死んだ時にだけ使え」と一方的に叱りつけてしまいそうになるが、語彙が豊かな人が突然見せる俗っぽい言い回しは、なんというか人間という種族の知性の限界を感じさせるとともに、言葉で表すことを諦めざるを得ないほどの渦巻く激情が存在することを教えてくれる。老子にもなると、スラングすら彼の意のままに効果的に操ることができるのだ。しかるべきタイミングで、しかるべき質量を載せて。
一時間半ほど老子の話を堪能し、会話の合間に選書してもらった本がこちら。
普段、店内の本を色々と見ているつもりだったが、全くもって知らない本だった。
うち三冊は極端に短かい話を詰め込んだ作品集で、もしかすると私の知能を勘案して易しい本を選んでくれたのかもしれない。老子に「普段何読んでいるの?」と聞かれ「好きなのは海外SFです」なんて答えた時も、もしかすると、相当背伸びしちゃって…と可哀想に思われていたのかもしれない。なぜならば、老子が流れるように話をしている間、私は「へー」とか「そうなんですか」という間抜けな相槌しか打てなかったのだ。老子の、空気を吸い込むように自在に出し入れ可能な圧倒的な知識量、一冊一冊に込められた本への真摯な熱量、即興の質問に対して宙に書かれた台本を読み上げるかのように早口で要点をまとめあげる話術、それらを前に私は完全に萎縮していた。
老子の選書をもれなく購入し興奮しながら家に持ち帰った私だが、それ以来、老子を思い出しては不甲斐ない自分と比較し、大いに落ち込んだ。本来、比較の対象にあげるのすらおこがましい方なのだが。
よく「信頼できない語り手」というワードを耳にするが、それを借りると、私は「信頼できない読み手」だ。たぶん自分の小さき頭で必死に書かれた内容について行こうとするあまり、認知の歪みや性急すぎる結論を招きがちである。それが本当に恥ずかしい。もし、自分の感想と全く正反対の人が現れたら、私は本を読み返すことなく自分が間違っていると疑わない。なんせ私は「信頼できない読み手」なのだから。
本、とりわけ小説なんて、百人読めば百通りの自由な解釈があって良いとは思う。ただ、その聞き慣れた耳あたりのいい言葉すら、私が自分の解釈を正当化して第三者から批難されないために都合よく使っているだけなのではないか、と不安になる。私自身についてだって「あなたは非常に正義感に溢れていてリーダシップがある人ですね」と他人から言われたら、考える前に即座に「違いますよ」と答えるし、ちょっとその人の思考回路を疑ってしまう。それと同じく、反論せぬ本にだって本当は譲れない何かがあるのではないか。私はそれに正しく近づき、触れることができているのだろうか。まず怪しい。だが、その日ひとつだけ確信したことがあった。老子は間違いなく正解のそばにいる。
その夜、夢を見た。深緑の水面が波打つ池のほとり、たおやかな象牙色の深衣に身を包んだ老人が、新芽に覆われた倒木の縁に腰掛けている。その顔には、見覚えがあった。その人は鷹揚な微笑みを浮かべて、古代中国(っぽい)扇子で白い髪をそよがせている。風の一筋が、密生する草地で這いつくばっている私の見開いた眼を乾かした。
————老子だ。老子が、正解を湛えた池のほとりにいる。私の直感がそう告げていた。憧れの老子と同じ知に辿り着きたいのならば、迷わず汀に飛び込めばいいものの、夢の中の私は相変わらず的外れな私のままで、頓珍漢な感慨にふけって突然咽び泣くのであった。
「やっぱりあなたは……老子だったんですね」
ソクラテスよりお似合いです。やっぱり私の見立ては間違いではなかった。 このことを早く父に伝えなきゃ、そう思った次の瞬間、目が覚めた。